階段イップス

「階段」をスタコラサッサと駆け下りていくサラリーマンを横目に今日も僕は最後の一段を飛び降りた。

いつからなのか、初めからなのか、僕はどうにも階段を上手に降りられない。階段が怖い訳ではないし、上るのは普通に出来る。降りることが、苦手なのだ。階段の真ん中を過ぎたあたりから背中に冷たいものを感じる。足元を見て、見えてる、大丈夫、と心の中で呟きながら降りていく。なのに、最後2、3段のところでぐらりと重心が崩れる。またか、と悲しい気持ちにさえなる。ホームで電車を待ちながら階段の事を考えていると、あの重力に翻弄されるような感覚が込み上げてきて、卒業式の緊張を思い出した。そうだ、あの時もー、と。

中学の卒業式。人前に出るのが苦手だった僕は名前を呼ばれて返事をすることさえも緊張していた。どのくらいの大きさで、どのくらいの高さで「はい」と返事を成功させられるか。立ち上がるタイミングも考えたし、立ち上がる時に椅子を動かさずにしっかり立てるかも不安で仕方がなかった。クラスメイト達が名前を呼ばれる度に頭の中で練習した。結局、なんとか成功させて証書を受け取り、階段を目前にして気が付いた。不覚、これは練習していなかった、と。たった五段である。しかし最後の一段をぴょんと飛び下りる訳にはいかない。階段の前で立ち止まって半泣きになるなんてことも、そんなことをしたら伝説になってしまう。やばいやばいやばいー、と頭を真っ白にさせながら踏み出した。そこからはあまり覚えていない。伝説も語り継がれていないので恐らく普通に降りることが出来たのだろう。ただ、あの時に見つめた五段の階段は今でも思い出す度に手汗をかく。

僕は階段が苦手だ。毎日通勤で上り下りしていたって、治らない。人参を皿の端に避ける大人のように、大人になった僕は階段を最後の一段飛び下りる。僕は今日も、飛び下りる。

ファインダーの向こう

10年前、あの日。たくさんの夢と希望を詰めたロケットが、地球から飛び立ったという。結末は悲しいもので、宇宙飛行士たちが地球に帰ってくることはなかったそうだ。そして同時に。太陽は、弾けて消えてしまった。砕けるように、散りばめられたように。

 

あの日から、地球は一変した。一日が夜のように暗い世界のまま過ぎていく。じわじわと大地は冷え、人々は寒さに震えた。暗く寒い世界の空は昔より星が増えたように感じる。あれは、はくちょう座だろうか。そんなことを考えながらぼんやりと歩いていると暗闇の中に光る街灯がぽつん、と現れた。太陽を失ったこの世界で未だに電気の通っているものを久しぶりに見た気がする。街灯が立つ傍には小さな公園が静かに潜んでいた。閑散とし、遊具は雪を纏っている。それは寂しくも、美しくも見えた。子供たちが高上げして遊んでいたのだろうか。ブランコは鎖が結ばれ、少し斜めになっていた。僕は街灯の真下にあるベンチに腰を下ろし、沈黙の公園を見つめる。ハァ、と吐いた息がキラキラと舞った。

 

僕は今日、会社をクビになった。役立たず、なんだそうだ。特に未練は無いのだが、理由があんまりだと思った。とはいえ、興味もやる気も持てなかった僕が悪いのだろうが。「だったら他の仕事に就けば良かったのに。」と、他人は言う。何も知らないくせに。僕にだってなりたいものはあったのだ。思い描けば走り出したくなるほどの、『憧れ』が。高校生の頃にSNSで見かけた写真に衝動を駆られ、学校を休んで美瑛へ行った。衝撃的だった。薄水色の空に太陽の光を浴びてキラキラと光る雪の結晶たち。キンと張り詰めた空気の中で唐松が青い池に反射する。雷に撃たれたような美しさがそこにはあった。高校を卒業してから2年間、カメラを首に提げて世界を旅して回った。沖縄のサンゴ礁。タイのロイクラントンや、水面に映ったサン・モン・ミシェル。夢中でシャッターをきった。この世界は美しいと、本気で思っていた。その世界を世間に伝えるのだと、本気で憧れていた。太陽が散る、あの日までは。それが20歳になる秋のことだった。しかし世界は変わってしまった。『憧れ』は菓子缶の中に閉じ込めた。もう長いこと、それを開けていない。僕の人生はあの日で終わったようなものなのだ。

「大丈夫かい?」
顔を上げると見覚えの無いサラリーマンが立っていた。大丈夫です、と一声返す。ついでに笑って見せたけれど、不安そうな顔をしたまま去っていった。今日も寒い。こんな歳で職を失って、公園で知らないサラリーマンに心配をされた。我ながら情けない。俯いて目を閉じるとなんだか眠たいような気がしてきた。このまま、本当に眠ってしまおうか。
「あの。」
驚いて、勢いよく顔を上げる。先程のサラリーマンが立っていた。
「これ、えっと、寒いので...」
と、男性は不器用に微笑みながら懐炉を差し出した。思わず受け取った手からじんわりと温もりが広がる。あまりの優しい温もりに、鼻の奥がツンとした。しばらく星空を眺めてから懐炉をポケットにしまい込んで家へ帰った。灯油ストーブを付けて、ヤカンに水を足す。ジュウジュウと蒸発する音を聞きながら錆びれた菓子缶に手を伸ばす。その日、僕はたくさんの『憧れ』を部屋中に貼り付けた。

ねじ巻き人形

今週のお題「「怖い話」に、ちなんだ話」

 

小学生の頃のこと。

わたしはリビングで母と向き合うようにして夕飯を食べていた。他愛ない会話の中の、ふとした隙間。

「カチッ」

音が聞こえたと同時にわたしは母と目を合わせた。どこからか優しいメロディーが聴こえている。音のする方へ目を向けると、ピアノの上に飾ってあった可愛いらしい人形が手足をぱたぱたさせながら音楽を奏でていた。

「あっ」

母は声を上げた後、くすり、と笑った。続いてわたしも、あ、と気付く。今日は祖父の命日だ。わたしは、くすり、と笑った。

 

解説

この人形はまだわたしが赤ん坊の頃に祖父(母方)から孫へ、と買ってくれたものです。

人形が動いた当時、母は昼夜2交代で働きながら家事もこなしていました。今思えば、相当忙しい日々を送っていたことだろうと思います。また、祖父は60代で亡くなっており随分経っていた為、命日のことを母もわたしもすっかり忘れてしまっていました。

祖父は熊のような大柄で、黒い肌に金のネックレスが似合う強面お爺さん。性格は明るく寂しがったりするような人ではなかった為、思い出して欲しくて人形を動かしたのかと思うと、可愛すぎて母もわたしも笑ってしまいました。

ちなみに、この人形はねじ巻きで動くものでした。

「約束」

今週のお題「怖い話」

ある日、携帯にひとつのメッセージが届いた。高校時代の友人からだった。「伝えたいことがある。」少し内気で、笑うと照れたような表情をする彼がそう言うのだ。よほど大事な話なのだろうか。わたしは5年ぶりに彼と会う約束をした。

約束の日、わたしは彼と会うことをかなり楽しみにしていた。彼の言う「伝えたいこと」とは、恐らく結婚報告だろうと思っていた。彼と最後に会ったのは5年前。その時に「彼女と同棲を考えている」という話を聞いた。その時もやはり彼は照れたように笑っていた。約束のファミレスへ行くと彼はもう来ていた。久しぶりに会う彼は薬指に光る指輪を付けていて、相変わらず可愛らしい笑顔を見せた。そして、少しだけよく話すようになっていた。あまり自分のことを話そうとしなかった彼がいろんな話をしてくれたことを、わたしは嬉しく思った。

しばらくお互いの話をしたところで、彼が「伝えたいこと」について語り始めた。わたしの目の前に真っ白な紙を差し出して。あぁ、と大体理解した。「夢を叶えよう」「幸せになって欲しい」わたしの為を思ったような言葉がたくさん並べられた。マルチ商法だ。それなりに頑張っている会社での働きを無駄と言っているような話をされ、彼が「伝えたいことがある」と言っていたから来たのに、他人を連れてきているからその人の話を聞いて欲しい、と言う。あげく、断ると「この話を他の人にしないで欲しい。約束を守ってくれたら僕が成功した時に欲しいものを何でも買うよ。もし守れなかったら...うーん、どうしようね(笑)」と、言われた。殴りたくなった。鼻の奥がツンとした。ひどく、悲しかった。話は断り、彼とは二度と会わないと決めた。

よく考えてみれば昔から素直な青年だったし、彼がそうなるのもなんとなく分かる気がした。話自体が嫌だったのではない。きっと、「買われた」ような話が悲しかったのだ。もう二度と会うことも無い、切ない思い出のひとつだ、と割り切ってすっかり忘れてしまっていた頃のこと。ずっと昔にSNSで「見るだけ」のサブアカウントを作った事があった。作ったものの、結局使わずに放置していたものだ。退会をしようとログインすると、フォロワーが1になっていた。投稿も無い、意味の無い文字で作られたID、アイコンも設定されていないアカウントに。最後に見た時はフォロワーなんて居なかった。きっとビジネス的なフォローだろう、と思いながらも、なんだか胸がざわりとした。恐る恐る、フォロワーの一覧を開いた。まさに、血の気が引くという感覚だった。あの言葉が耳元で聞こえた気がした。

「もし守れなかったら...うーん、どうしようね(笑)」

 

 

解説

フォロワー1 は、マルチ商法の彼でした。

絶対に特定出来るはずのないアカウントをどうやって見つけたのでしょうね。

「雨」

幼い頃の秋に、ひとがひとり死んだ。
家の、裏の、表の、ひと。
学生服を着た僕は玄関を出て母に言った。
「ねぇ。なんだか、空が青いよ。」
今になっては、いや、なっても。よく、分からない。その時の僕には、本当に青く見えていたんだと思う。その色をよく覚えているから。青紫色の朝顔のような空を。

 

夏のはじめに、ひとがひとり死んだ。
同級生の、元、恋人。いつも楽しそうな女の子。夜勤明けの朝は黄色く静かに泣いていた。この世界はおかしい。認めない。そうして叫ぶように泣く母親と、声を殺すように泣く父親。ひどく悲しい世界を哀れむように、しとしとと世界が泣いていた。

 

人は必ず死ぬ運命にある。「人生100年時代」なんて言われるようにはなったけれど、100年も生きられる人はどれほどいるのだろうか。じゃあ何故あの女の子は21歳という若さで人生を終えてしまったのか。同じ町の知らない同級生が広報の「お悔やみ」に入っていたのは間違いだったとでも言うのか。自分の心臓があと1分で止まる、そんなことは有り得ないと、何故信じているのか。いや、人はみな、心の中では怯えているのかもしれない。そう見せないだけで、 一生懸命に命を燃やしているのかもしれない。僕は。僕は、どうだろうか。今日も、世界のどこかで雨が降っている。